ウイスキーを築いた本場

ザ・グレンリベット蒸留所はどのようにして並外れたウイスキーの本場になったのでしょうか。

ジョージ・スミスがグレンリベット・バレーで最初の認可蒸留者になった時、彼は独力で合法的なウイスキー取引を行う先駆者になりました。最初であるということは、競合相手よりも一歩前に居なければならないことを意味しており、そのため彼はスペイサイドのウイスキー華族制度の中でザ・グレンリベットの地位を強固にする蒸留所の建設に対する自負心を持っていました。

新しいライセンスを得て、ジョージ・スミスは1824年にドルミン高地に最初のグレンリベット蒸留所を開設しました。そこで製造されるスムーズでフルーティなウイスキーの名声は、すぐに英国中に広がりました。1850年までに、スミスはデルナボの2つ目の蒸留所を貸し出しました。これはケアンゴーム蒸留所とも呼ばれています。この蒸留所の経営を一番下の息子ジョン・ゴードンに手渡しました。しかし、国民はザ・グレンリベットを本当に欲しがったのです。1850年代の半ばまで、2つの蒸留所がフル稼働していましたが、この最高級のシングルモルトは、この異例の需要に対応することはできませんでした。この2つはまた経費がかかり管理の難しいことも分かりました。常にチャレンジを楽しむ男であったスミスは、製図版に戻りました。ミンモアの丘を少し下った所に、壮大な規模の新しい蒸留所の計画を練りました。

ミンモアから得た多くのもの

ジョージ・スミスは、ドルミン高地の機器類を移してミンモアに設置しました。新しい蒸留所はザ・グレンリベットをスコットランドの繁栄するウイスキー産業の最前線に維持するためのスミスの粘り強さと願望の証拠として1859年にオープンしました。丘に設置されたこの蒸留所には大きなワーム・タブと人目を引く煙突があって数マイル先から見ることができました。この蒸留所はスミスのずば抜けてスムーズでフルーティなウイスキーに対する高い評価の目に見えるシンボルとなりました。スミスが1871年に亡くなった時、ジョン・ゴードンは、この蒸留所を受け継いで父の遺産が立派に維持されることを約束しました。

ザ・グレンリベットの人気が高まるにつれて、蒸留所に新しく追加されたものがありました。1890年から1899年の間、新しいモルト倉庫が建設され、2番目の一対の蒸留器が設置されました。これによって、さらに多くの仕事が作り出され、多くの蒸留所ワーカーのために建屋が造られました。モルトとマッシュに関する団体が設立されました。

1895年に、ミンモアに電話が設置されました。その後すぐに電気が引かれました。これは、グラスゴー大学がこの新技術を入手するよりも前だったのです。当時のこの驚異的な技術はどちらも蒸留所の経営に欠かせないものになりました。

そして、第一次世界大戦が始まりました。戦いの悲劇は、この山や谷を通ってスペイサイドの人里離れた荒野にまで及びました。スミス・グラント一家の若い男たちが戦場に向けてグレンリベットを出て行って不在の間、蒸留所の経営にピーター・マッケンジーが指名されました。ザ・グレンリベットの後継者であったジョン・ゴードン・スミス・グラントが戦争の負傷のために25歳という若さで亡くなりました。残されたのが彼の弟キャプテン・ビル・スミス・グラントで、スミス・グラント一家の最後の子孫でした。

25歳になるとすぐに、ビル・スミス・グラントは、ピート・マッケンジーから蒸留所の鍵を引き継ぎました。それは、失われたすべての人々に敬意を表すとともに新しい始まりを祝うというほろ苦い瞬間でした。

キャプテンが采配を振るう

第一次世界大戦の後、キャプテン・ビル・スミス・グラントは事業に没頭しました。蒸留所は改善され更に拡張されました。勲章を授けられたキャプテン・スミス・グラントは蒸留所の遺産の維持に大きな自負心を持っていました。センティネル・ワゴンを1台購入してウイスキーの輸送の助けにしました。石炭を燃料とする蒸留器も導入されました。驚くべき16の貯蔵庫が建設され容量は最大100万プルーフ・ガロンになりました。1924年までに、この蒸留所の生産能力は週7,000ガロンに達しました。ビジネスは急速に発展しました。2台の蒸気トラクターが音を立てながら毎週250ガロンのウイスキーをバリンダロッホ駅まで運んで行きました。

もし、いいウイスキーを造れなければ一切ウイスキーを造るべきではない。

キャプテン・ビル・スミス・グラント

その後1925年の後半の大英帝国の壊滅的な景気低迷によって、ウイスキーしかも大変人気のあったザ・グレンリベットさえも、その需要が抑えつけられました。戦後の生産過剰とアメリカの13年間の禁酒法が窮状に拍車をかけました。1929年のウォールストリートの暴落で世界は大不況に突入しました。

しかし、このような可能性のすべてに逆らって、そしてビル・スミス・グラントの独創性、ビジョン、決断への証左として、ザ・グレンリベットは生き残りました。この蒸留所は有名なシングルモルトを製造し続け、他方で多くのライバルの蒸留所は衰退するか閉鎖されました。1933年に第18条改正法案が廃止された時ザ・グレンリベットは強い立場にありました。蒸留所は生産を進め1937年までに再びフル操業となり、その年は306,000ガロンという記録を達成しました。

そして、グローバルなイベントが今一度ザ・グレンリベットの歴史に劇的な役割を果たしました。第二次世界大戦が始まって蒸留所は政令によって一時的に閉鎖されました。

新しい時代に向けての拡張

英国は第二次世界大戦を勝利で終えましたが、借金で動きが取れなくなりました。景気に弾みをつけるためには輸出が必要で、アメリカがザ・グレンリベットを渇望していました。蒸留の規制は解除されました。ザ・グレンリベットは、再び難局にうまく対処し蒸留所は新たな熱意で活気を取り戻しました。 1947年まで、大麦、燃料、人手は限られていましたが生産量は戦前のレベルになりました。蒸留所向けの穀物の供給を確保するためパンの配給は1948年まで続けられました。

長く続いた戦争の影響はついに消え去り、ザ・グレンリベットでの生活はますます強固なものとなりました。1970年代までに蒸留所は更なる拡張と近代化が必要になりました。1972年に新しいマッシュ棟が建設され蒸留所は最先端技術に取り組みました。石炭バーナーに換えてガス燃焼式の蒸留器が導入されました。この後、新しい蒸留棟を建設して新しい蒸留器を2機設置し翌年にはリベット・フィード工場が建設されました。生産量は驚くべき新記録に達し1973年だけで100万ガロン以上のウイスキーが製造されました。

一般の人々を歓迎

1978年に蒸留所は初めて一般の人々に扉を開きました。ザ・グレンリベットのビジター・センターはウイスキーの熱狂的ファンに、すべてのボトルに入っている技能と技術を見る機会を与えてきました。これと同じシングルモルト体験を、あなたも、このセンターで楽しむことができます。

アラン・ウィンチェスターが2009年にマスター・ディスティラーの称号を得ると蒸留所は更なる拡張を行い新しいマッシュ・タンが建設され、それに付随して8つのウォッシュバックが設置されました。6つの新しい蒸留器も設置されました。これらは、この蒸留所の他の全ての蒸留器と同様に、ほぼ200年前にジョージ・スミスが最初に使用したものにヒントを得ています。このような改良によって生産能力は更に引き上げられインドや中国のようなエキサイティングな新しいマーケットからの増大する需要に対処することができます。

ジョージ・スミスがスペイサイドに最初の蒸留所の基盤を据えた時、彼は何世代も存続して繁栄する遺産を構築していたのです。時代の流れとともに蒸留所は移動してきましたが、素晴らしいウイスキーを造るという最初に試行され検証された方法に対する尊敬の念は常に持ち続けられました。